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Bonsoir

地域を支援する

「地域は理屈で動いていない」


地域を支援する、というとき、

様々なアプローチがある。


地域全体を俯瞰的に見る

地域の一員となって同じ目線に立つ

地域のリーダーに寄り添う

地域の変化を後押しする


このとき、

誰に寄り添うか、どんな人に寄り添うか、も様々。


地域のこれまでの活動を理解しつつ、中から変えようとしている人

目上の方を敬い、次世代を見守り、地域全体のバランスを見て行動している人

今までのやり方から脱却し、ゼロスタートで新しく始めようとする人

自分の周りの関心事から小さく行動している人


地域に関わるのは本当に楽しい。

いろんな人に出会えるし、地域で行動している人たちからは学ぶことが本当に多い。

特に、マネジメントとコミュニティの境目が興味深い。

言い過ぎず、動かなさすぎず、動きすぎず、言わなすぎず。

そして、そこに暮らす人にしかわからない範疇が垣間見える瞬間がある。


さらに、自分の地域に関わって思うことは、
「地域は理屈で動いていない」

地域は生ものであり、生き物である、ということ。

ベストではなく、ベターを積み重ねている、ということ。


地域が成熟し、個が際立ち、地域一丸となることができない今、

地域というエリア性に特化して、支援者が地域を支援する時代は終わっていく。

まちづくりは、地域に暮らす人のもの

理屈でも専門性でもなく、暮らしの延長にあるもの。


口伝や世襲で受け継がれてきたものが、

まちづくり、という文脈で専門分野となった時代を経て。

これからは、専門性の一般化が進むだろう。

あらゆる人が自分の暮らす地域に目を向け、行動できる社会へ


そのために、

自分だけが良いのではなく、社会全体が良くなる視点を持つ人。

個の権利の主張ではなく、他者と理解し合い、ともに生きる社会を目指す取組み。

さらに、自分が生きている間だけではなく、次の世代もその先も豊かな社会が続く視点で。


誰に寄り添うのか、

何に寄り添うのか、

の見極めには、

その背景にどんな思想があるのか、を的確に把握する力が欠かせなくなるだろう。



# by ak-produce | 2023-07-28 15:09 | community

働く

1つ目の職場を退職するときに頂いた名刺入れがボロボロになったので、新しい名刺入れを探すのが今年の目標。

なぜ名刺入れをくださったのだろう、と振り返ってみて、きっと、この職場を離れてもしっかり働くんだよ、というメッセージだと解釈してきた。表向きは寿退社だけど、はじめから勤め上げるつもりがなかったことがバレていたのかもしれない。


それから、職を転々として、今は4つ目か5つ目の職場。

アルバイトもあり、個人事業主(今も継続)もあり、どこまでが職場でどこまでが自営業かもよくわからない状態で。その都度、働き方も、お世話になる方も様々で、いろんな働く形を経験していることは、今の自分の糧になっている。だけど、世間体には定職に就けない問題児ともいえるのかも。

あわせて、家庭環境の変化。

子どもが幼い時期は個人で時間を融通できる働き方に助けられた半面、時間管理の杜撰さがストレスになったり。生活費のためのアルバイト代は全て保育費に消えて行ったり。少しでも自分のキャリアに活かせる職場を選んだつもりが、単なる消費型労働にすりかわったり。有償と無償の境目が曖昧になったり。

そして今、子どもが自立の道を歩み始めるにつれ、ようやく定職につけそうな環境なのに、すでに、そんな簡単に採用されない年齢になっている。でも、あと10年は働かなければと思う。

いや、働くという概念を超えているような気もする。働く、という意味ではいつでも辞めたいけど、自分のライフワークの最終ステージの10年をどう過ごすか、の中に、働く、という形をうまく組み込めたらいいな、という感覚か。

年を重ねると、働くことの責任とともに、自分の中で時間の使いこなしもうまくなっていくような気がする。取り入れるべきところは貪欲に、意味を感じないものはうまく捨てて。健康と気力と家庭と未来とのバランスを保ちながら、ほどよく力を抜いて進みたい。

というわけで、もういらなくなるかもしれないという予感もあったけど、外に出ていく覚悟を持つためにも、素敵な名刺入れに出会えますように。




# by ak-produce | 2023-01-22 22:47 | private

グローバルからローカルに

グローバル化が進んだ社会が、コロナで図らずローカルに目を向けさせられた。

仕事も暮らしも遊びも近い生活圏域でおさめる工夫が広まった。


これ、京都が都だった時の都市空間の使い方によく似ているのではないだろうか。

通りごとに同じ職業が軒を連ねたからこそ、周りに気を遣う言葉遣いが生まれたとか。

宗教とお金と政治の話をしなかった茶室空間も、心地よくその時間を共にするためのお互いの配慮からだという。

壁一枚隔てた隣にお隣さんがいる。親しい中にも礼儀あり、は、争わず平和に暮らす術ともいえる。


「いけず」が、相手に恥をかかせないよう、肯定的な言葉を交わし、それとなく勘づき合う文化だとしたら、それは対人関係だけでなく自己研鑽にもなっていたのかもしれない。その言葉の背景にどのような心情が隠れているのだろうかと慮り、相手の言葉を鵜吞みにせず、自分の頭で自分のとるべき行動を考える癖をつけてくれる日常が、そこにはあったのかもしれない。


暮らしのマナーはお金で買えないし、身につけるもの。誰も代わってくれない。

暮らしのマナーはすべて、自分を中心とした生活圏域に返ってくるもの。


だから、ローカルな生活圏域では、一人一人の言動が顕著に表れると思う。

一人一人が他人や社会と礼儀ある関りができたら、平和に暮らせるのではないだろうか。

だけど日常では、例えば、乗ろうとしている人がいてもエレベーターの閉じるボタンを押すとか、バスで大きなリュックを背負ったままだとか、街路樹の落ち葉が自宅の前にたまっているから取り除いてくれと役所にクレームをいれたりだとか、自分の意見が通らないのを他人のせいにしたりだとか、、、

自分のことしか考えていないように見える行動によく出会う。(自分も含めて)


どうしてそんな社会を目の当たりにするのだろう。

生活水準が低くなりすぎて余裕がないのだろうか。

個人主義があたりまえになったからだろうか。


私は、脈々とつながってきて現在も目にする「暮らしの文化」と呼ばれるものは、意味があって残ってきたと思うし、むしろ、日常の中に脈々とあった「暮らしの文化」を壊してしまったこの100年が異質なのかもしれない、と思う。創造力や技術の発展のおかげで今の便利な暮らしがあり、未来の可能性も秘めているのだろうけど、私が「美しい」と直感的に感じるものには先人の智恵がつまっている機能美や経年美を備え持つものが多く、そして、この先なくなるかもしれないと言われているものが多い。


いつでもどこへでも行けるグローバルな社会を手に入れたからこそ、ローカルな生活圏域で心地よい暮らしを心がけることを忘れないようにしたい。





# by ak-produce | 2022-11-11 08:47 | community

「まさか」

先日の新聞に、我々は「まさか」に委ねていないか、という論考が掲載されていた。

まさか戦争になんてならないだろう、

まさか病気になってならないだろう、

まさか事故になんてあわないだろう。

日常は「まさか」にあふれている。


健康だけが取り柄だと思い込んでいた私が、「まさか」の入院・手術を経験してから3年が経った。「病気は予後が大事。長い目線で付き合っていくように。」というアドバイスが一番印象に残っていたので、3年後の今を残してみようと思う。


退院から半年後にコロナウィルスが世界を脅かし、これも人生で経験したことのない「まさか」の閉塞的な時間を過ごすことになったのもあいまって、今の私は、3年前から想像もつかないほどおっくうさが身についている。

腰は重いし動きは鈍いし、不義理も多くて、その結果回りまわって疎外感も大きい。

なにか1つのことが要因というわけではなく、複数の要因が重なっているのだと思う。


今の原動力の大半は、家庭と仕事。

私が止まってはまず家庭が動かない。食べさせる、があるだけで動く理由には十分。

仕事は好きだけど手探りが続く。面白くてたまらないというより、今は出勤する場所があるだけで助かる、という具合。

楽しい時間を必要としているのだろうけど、どこか受動態。

じっくりゆっくり向き合う持久力には意識が向くけど、瞬発力に欠ける。

家、静寂、緑、風、食べる、寝る、が心地よくて、そこから出ることにとても力を要するということ、3年前の自分では理解できないだろう。新しいこと、新しい出会い、共感、大勢の人ごみ、を無意識にも避けていると思う。


ネガティブに言えば、これから50年を生きるのが怖い。

何もつかみどころのない、無気力な50年ならいらない。

これまでのような無邪気な50年とは比べ物にならないほど、気力をつかみ取る体力もどんどん衰えていくだろう。


一足早くやってきている更年期をきっかけに、内向的なことをいいことに、じっくり体の声を聴くようにしてみると、ホルモンバランスや体温調節、気分の浮き沈み、体の不調、、、自分の体は意外と声を出していることに気づく。

そんな内面と向き合う時間とは裏腹に、外的なストレスは相変わらずやってくる。

前向きでポジティブなことと、暗中模索で迷路のようなことと。

人との間で答えを求めるより、静かに内に流れる声を聴くような時間に解決の糸口を求めている。


そんな人生の不調期のさなかに流行病にかかった。

それはそれで、これまで経験したことのないような、重くてしんどい10日間だった。

それまでの内向きな時間を一気に濃縮したような、孤独で忍耐力のいる時間。

もう終わりなんじゃないかと、先の見えない時間がずっと続くように感じた。


でも、これが1つの転機となった。

流行病から明けてみると、3年分の閉塞感もひとまとめに、体内から大きな黒い塊が出ていったような、変な解放感を感じた。

それだけこの3年間は、異様なまでの偏見やら同調圧力やらの外的ストレスが見えないうちに体中を取り巻いていたのだろうと思う。

ウィルスは、心身内外の悪いものも一緒に持ち去り、今は爽快感とまで言えるほど清々しい。

重い腰が少しだけ軽くなったように思う。


振り返ってみると、承認欲求なのか焦りなのか、20代、30代と奇妙な高揚感で突っ走っていた私の体は、40代のちょうど体力と気力の曲がり角で病気と流行病にかかり、これからの人生それでは走れないぞと、ブレーキをかけてもらったのかもしれない。今では、この閉塞感あふれる3年間は、これまでの私にとって必要だったもの、これからは必要ないものをまとめて一気にそぎ落としていく時間だったのかもしれない。


さて今、私という芯以外のものはすっかりそぎ落とされ、これから先、何をよりどころに生きるのだろう。これまでの人生で何度か訪れていた高揚感はまた来るのだろうか。はたまた、向こうから来るのを待つのだろうか。

ひとまず当面は、自分のアンテナがキャッチするものだけに身をゆだね、流れに身をまかせてみてもいいのかもしれない、と感じている。どこかに余裕を持ち、焦らずおおらかに構えてみてもいいのかな、と思えている。

もしかすると、そんな余白の持つ力が、これから訪れるかもしれない「まさか」の緩衝材になるのかもしれない。「まさか」に備える力とは、必死で自分を守る強固なものだけじゃなく、脱力感ややさしさから生まれるものなのかもしれない。


まだ3年。

また10年後にも振り返れたらいいな、と思う。





# by ak-produce | 2022-10-24 15:24 | private

失われた30年

私は、経済は全く素人なので、最近の経済動向から感じる一般家庭の消費者感覚で思うことを書いてみようと思う。

30年間、物価や賃金が上がらなかったデフレ日本に、物価上昇のインフレの波が訪れている、らしい。

この物価上昇に日本人は耐えられるのか、という記事をよく見る。


日常生活に直結する食費、交通費だけを見ても、物価が上昇している感覚がある。

特に京都市内は、何気なく不動産価格を見ていても庶民に手が届く金額に見えない。

気が付けば、日本の歴史都市が海外資本に食いつぶされている。


今の状態は平成のおよそ30年間の経済政策の結果なのだろうか。

平成に何があったのか。


素人目でも、昭和の高度経済成長で世界に引けを取らない経済国家となり、その助長政策により、あと数年、あと10年というように短期的な利益を追求しすぎているように見える。雨が降れば桶屋が儲かる、的な、数十年先を見越した長期的な経済の循環ではなく、自分が売った分だけ目に見えて儲かる、的な思想で、費用対効果を最大限にすることを優先しているように。すでに企業はそういうシステムになっていて、その歯車を回すことが仕事になっていたり。

だから、商品価格に余剰分がなく、この先の人口減少時代を見据えた新しいシステムを生み出す余裕がないし、安価であることが購入の動機となる消費者を量産しすぎる結果となったのではないだろうか。


私は消費者として、良いものをそれなりの価格で買う、ということにとても勇気がいる。

ある程度経済的余裕のある家庭では違うのかもしれないけど、少なくとも、経済的余裕が十分なかったんだろうと思う家庭で育った私はそう。

今は、貧困層ではないと思えるくらいの消費者として、良いものの目利きや妥当な価格を見極める力を養っていかねば、と思う。


これからの京都は、経済的に海外資本に助けられることが普通になるとして、賃金の上がらない日本人として、このまちでどう生き抜いたらいいのだろう。良いものを見抜き、正規価格で買い、長期的な経済的循環社会に生きることができるような目と財力のある日本人はどれだけの割合でいるのだろう。人口減少社会で、日本人の身の丈に合った経済循環を実現する賢い消費者になろうと思ったとき、今の日本では、より多くの人がそうなるための政策が見えない。

賃金があがらないから、どれだけ安く快適な商品を見つけられるか、が消費の動機になっている経済循環を止められない。いや、戦後に勝ち取った自由と経済が、国民総成金社会を実現し、お金の使い方を学ばないうちにデフレに突入した、ということなのか。


1人当たり消費額を上げようとしたら、世帯人員を減らすか世帯収入を上げるか。

賃金が上がらなければ、世帯人員を減らすことになる、と考えると、少子化、晩婚化も全く別の問題ではない。

一人っ子の我が家も、不安定な世帯収入が頭をよぎらなかったわけではない。

1人当たりの消費額を上げることが日本経済の安定化につながるなら、子どもにかかる支出補助が景気回復につながるように思うが、数では高齢者福祉に勝てないので、選挙による政策選定の仕組みそのものへの信頼も下がる。


「多数決したら高齢者が勝ちますよ」

高度経済成長を生き抜いてきた地域の重鎮が公の場で放った言葉。

生きてきた中で衝撃と恐怖を感じた言葉のひとつ。

もし今もそんな考え方で政治が行われているのなら、この国の未来が恐ろしい。


(参考)

2022.6.19京都新聞「京都の産業構造の強みは産業の多様性」(龍谷大学教授白須正氏)によれば。、

京都市内総生産は、サービス業が24.5%、製造業は22%(18年度)。

製造業出荷額は、1980年は、繊維工業、食料品製造業、電気機械器具製造業、輸送用機械器具製造業の順だったのが、90年、2000年には電気機械器具製造業がトップに。

サービス業の内訳は、以前は宿泊業・飲食サービス業がトップだったのが、現在は医療・福祉がトップに。

データで見ると、京都の産業は柔軟に変化し、かつ、偏りが少ないことがわかる、とのこと。


次の時代の経済システム、数十年単位の長い目線で経済循環を回す可能性が見えるのは、過疎地でも大都市でもなく、ほどよくコンパクトで地方と都市の両方の顔を持つ「京都」なのかもしれない。





# by ak-produce | 2022-09-22 18:28 | Kyoto

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